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「シュタイナーの名言です。」?

 ツイッターに「教育は科学であってはなりません。それは芸術でなければならないのです シュタイナー」というツイートがかなり頻繁に投稿されています。ツイッターの他にもシュタイナーの名言としてあちこちに紹介されています。みなさんもどこかで見たことがあると思います。
 これはシュタイナーがそう言ったのでしょうか?疑問に思って少しだけインターネットで検索してみました。
 すると、某雑誌が2000年にシュタイナーの言葉として「教育は学問であってはならない。芸術であるべきだ。」と掲載したことを紹介するページがありました。
 他には、某A大学の先生がシュタイナーの教師像について「教育は科学であってはならない。それは芸術でなくてはならない。」として紹介するページがありました。
 しかし、この某A大学の先生がリンクしているページでは、1981年に某B大学の先生が行った講演の中で、シュタイナーは「教育は学問ではなく、芸術であるべきだ」と述べたと講演されたことが紹介されていました。その講演記録は本として出版されているそうです。
 某雑誌の紹介内容も、某A大学の先生の紹介内容も、時期的に情報源と見られる約30年前に某B大学の先生が行った講演会の講演記録の内容とは少しずつ異なる内容を紹介しているように見えます。
 では、某B大学の先生が約30年前に講演会で紹介した言葉はシュタイナーの言葉なのでしょうか?英語で検索してみました。
 すると、ウィリアム・K・フランケナ(William K. Frankena, 1908-1994)の「教育(EDUCATION)」で引用されている、イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill, 1806-1873)の著書「論理学体系」の記載"education is not a science, but an art"がヒットしました。
 (as "In J. S. Mill's language (A System of Logic [1843], Book VI, Chs. V, XI), education is not a science, but an art."
 (http://www.ditext.com/frankena/education.html))
 シュタイナーは講演集「A modern art of education」(教育における現代芸術)にまとめられた講演の中でもジョン・スチュアート・ミルについて言及しています。
 つまり、ジョン・スチュアート・ミルの「論理学体系」に記載されている「Education is not a science, but an art」(教育は科学ではない、しかし芸術である。)の誤訳か、誤解か、あるいは、もしもシュタイナーがそれを語ったとしたら・・・という独自の解釈かは知りませんが、30年位前に某B大学の先生がシュタイナーは「教育は学問ではなく、芸術であるべきだ」と言ったと紹介したらしく、それが後に某雑誌で「教育は学問あってはならない。芸術であるべきだ。」とシュタイナーが言ったと紹介され、更に、某A大学の先生がシュタイナーは「教育は科学であってはならない。それは芸術でなくてはならない。」と言ったと紹介したということでしょうか?そうだとしたら、まるで伝言ゲームのようですね。確かに科学や学問ではなさそうです。
 そのような経緯で、日本では「教育は科学であってはなりません。それは芸術でなければならないのです。」が「シュタイナーの名言です。」として流布されているということでしょうか?つまり、少なくともジョン・スチュアート・ミルの言葉になぞらえていると思われる、シュタイナーの言葉かどうかも判らない言葉が、更に手を加えられながら、「シュタイナーの名言です。」として流布されているのではないのですか?
 これは本当にシュタイナーの名言といえるのですか?好意的に見ても、織田信長が「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」と言ったとかいうレベルの話なのではないでしょうか?要するに作り話なのではありませんか?ミルではなくて、シュタイナーの代表的な言葉として拡散していいのですか?後に「全部嘘じゃないか!」と非難されることにはなりませんか?
 そして、このことに気付いたのは、過去30年で私が初めてなのでしょうか?なんだか日本は文化的に孤島なんだなと思い知らされる結果で、今はこのことをこれ以上追いかける気がしませんので、誰か真相を知っている人がいたら教えて下さい。私はこの名言がもう少し拡散された頃に、再び調べてみようと思います。
 そもそも、この名言(みなさんは名言だと思いますか?)として紹介されている言葉が何を言わんとしているのか意味不明です。シュタイナーは「科学教育をしてはいけません芸術教育以外は教育と認めません。」と言ったとでもミスリードしたいのでしょうか。シュタイナーはそんなことは言っていないと思うのですが。シュタイナーは、科学教育も、芸術教育も両方大切だと言っているのではないですか?そして、なぜそれほど多くの人がこの変な名言に「その通りです!共感します!」とか言っているのか理解できません。余程つまらない科学教育を受けた人が多いのか、あるいは学校の先生の芸術に深く感動した人がたくさんいたということなのでしょうか?
 こういう創作名言?を有難く崇めるものの総体が日本のシュタイナー教育でなければ良いのですが。子どもはともかく、大人がそのレベルでいいのですか?反科学、反知性といった偏った大人の心情を子どもに押しつけているのではないのですか?子どもが芸術について勘違いをしてしまいませんか?そんなことではいつまでたってもフリースクール扱いのままだと思うのですが。


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自然科学なき日本のアントロポゾフィー

 ルドルフ・シュタイナー著「自由の哲学」には、「A Modern Philosophy of Life Developed by Scientific Methods」(「科学的方法により開発された、生活(人生)についての現代的な哲学」)という副題が付されています。私は、科学(science)をどう捉えるかはアントロポゾフィーにとって大変重要なことだと考えます。特に、自然科学(natural science)をどのように捉えるかは極めて重要であると考えます。歴史的に見ても自然科学が人を自由にしてきたからです。自然科学を理解したときに得られる自由があるのです。シュタイナーも、勿論、自然科学を理解していました。彼の語る「自由な個人」は自然科学に裏付けられています。自然科学を理解する以前の人間に自由はありませんでした。
 ルドルフ・シュタイナーは理系(science course)の人でした。ウィーン工科大学出身で、当時最先端の技術を用いる鉄道技師の家に育ちました。そして、彼のもっとも世に認められた業績はゲーテの自然科学論文をまとめたことなのかもしれません。このことは日本ではあまり注目されていないようです。
 理系には理系の物事の捉え方があります。私は理系の人間として、文系(art course or humanities course)の人よりもシュタイナーの言いたいことが良く判る面があると思っています。ただ、私のそうしたアントロポゾフィーの理解は現在の他の日本の人々のアントロポゾフィーの理解とは大きく異なるようです。私は、少なくとも自然科学を正しく理解できる人でなければアントロポゾフィーを正しく理解できないのではないかと思っています。アントロポゾフィーのためには、自然科学に基づいて厳密に思考した経験が求められ、更にその厳密な思考を用いて複雑な人間について思考することが求められるからです。
 日本の文系的なアントロポゾフィーの現状や意味不明な日本語翻訳本には厳密な思考の痕跡が見出せません。もっとも、それらのものに対峙したり改善しようとしても何も得るところはないので、私はそのようなものとは異なるということだけをはっきりさせて、そういう日本の現状とは距離をとって、英語のシュタイナーの論文、講演集を少しずつ私が納得する日本語翻訳に翻訳していこうと思っています。誰かに見せたくて翻訳するわけではありません。自分の認識を明確に確認したいだけです。「これで辻褄が合います。これで正解です」と。日本語は私の母国語ですから、最も明確に文章にできるはずです。
 そのように苦労して得た認識は今のところこのブログでも公開したくありません。このブログはもともとアントロポゾフィー協会の外に居て、アントロポゾフィー協会の手前までやって来ようとする人のために書いているつもりです。これ以上のことは、私が共にアントロポゾフィー協会を作ってゆきたいと思える人とだけ共有したいと考えています。そして、それはその人が普遍協会員であるということだけでは十分ではないということを特に最近強く意識するようになりました。一頃は、それがどのような形であるとしても、私は邦域協会員と共に認識を共有し、活動してゆくべきではないかと考えていましたが、それは違いました。それでは私に自由がありません。私は最近、ゲーテアヌム直属の独立会員になりましたので、私が共に活動してゆきたいと思える人を自由に探してゆきたいと考えています。もっとも、そういう人が見つからなくても特に困りませんが。何故なら、これは私が専ら自分だけのために純粋に認識しているだけのことなのですから。その純粋さ、健全性には自信があります。幸いにも、私はアントロポゾフィーを商売にしておりませんので。
 自然科学は人間にとって特別な存在です。他のことについては各人が好きなようにあれこれ勝手に解釈して勝手なことを言うことができます。文化多元論だとか人治主義だとかいうのでしょう。その場合には、王様か、殿様か、学者か、他の人の勝手な言い草に否応なく付き合わされます。昔の人は専らそのように生きてきました。一方で、自然科学についてあれこれ勝手に考えることは無駄なことです。誤った考えは厳しい自然によって正されます。誰であっても、自然科学について人間は遅かれ早かれ正しく学ぶこととなります。ダメな原発はどんなに権力のある役人や高名な学者が運転していてもメルトダウンしてしまいます。
 同じ自然を見てもそれから学ぶか学ばないかは個人の自由です。その過程で、一方で王様や殿様や学者の権威は失墜し、他方では工業によって自由となった個人が生まれてきました。自然科学の認識の主体は個人です。一方で、自然は普遍的な存在です。そして、自然科学を認識することによって、多くの人が人治主義から脱して平等になり、自由になりました。アントロポゾフィーも自然科学と同様に普遍的な認識を求めるものです。
 正しい自然科学はどんな言語によってでも語ることができます。自然科学は普遍的だからです。何語にでも正しく翻訳できます。それは、翻訳者が「正しく自然科学を理解していれば」ですが。「自然を愛する」と自称するだけの芸術家的な翻訳者が正しく自然を理解しているとはいえません。先ずは、シュタイナーが何を語ったのかを正しく理解することが必要です。アントロポゾフィーの中で自然科学がどのような位置付けにあるのか。自然とは何か。意味不明な翻訳文を見るたびに、シュタイナーが書いたドイツ語原典をドイツ語で読んでも自然科学を理解できない人にはシュタイナーは判らないのだということだけが良く判ります。それは西洋人にとっては自明なことが東洋人には理解できないからなのかもしれません。あるいは、日本においては理系教育と文系教育の差なのかもしれません。
 自然科学が理解できる理系の人は、自然科学が理解できない文系の人の翻訳を介さずに、ドイツ語により近い英語でシュタイナーを自ら読むことが一番の近道ではないかと思います。西洋人が訳した独英翻訳の方が、文系教育された東洋人が訳した独日翻訳に比べて誤訳が入り込む余地が少ないからです。自然科学論文と同じことです。文系翻訳者が間に入ると論旨が判らなくなります。シュタイナーの略全ての論文や講演記録は英語で無料で読むことができます(The Rudolf Steiner Archive)。
 理系の人が無駄(話)を嫌うことは良く承知しています。日本語訳本を読んで嫌悪感を覚える理系の人は、シュタイナーを「自然科学を理解していない人」と断定する前に、翻訳者を疑ってみましょう。翻訳本を読むのは無駄かもしれませんが、シュタイナーを読むことは無駄ではありません。それが一番言いたいことです。


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普遍協会直属の独立会員になりました

 一般社団法人邦域協会日本を脱退し、ゲーテアヌム直属の独立会員になりました。
 理由はいろいろありますが、最終的には、これ以上、一般社団法人邦域協会日本のために時間を割く理由は私には無いと判断しました。
 これからは、独立会員として活動してゆきたいと思います。
 そして私が共に活動をしてゆくべき仲間を探してゆきたいと思います。
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シュタイナーの翻訳本を読んでも意味不明な理由

 日本人が翻訳したアントロポゾフィーの翻訳本を読んでも、僅かな例外を除いて、多くはその内容が支離滅裂で意味不明で理解不能です。
 僅かな例外を除いて、多くの翻訳本は書店のオカルト、スピリチュアルコーナーに置かれています。
 「意味が判らないところが神秘的でいい」という人もいるのでしょうが、「せっかく買って読んでみたけど意味不明でがっかりした」という人も多いことでしょう。

 ドイツ語ネイティブのアントロポゾーフは、「シュタイナーのドイツ語は独特で、ドイツ語で繰り返し読んでもすぐには意味がわからなかった」と明かしてくれました。
 シュタイナーは「もっとわかりやすく書くことはできたが、読者の思考力(純粋思考)を鍛えるために意図的にそのように書いた」と言っています。以下に説明しますが、これは悪意や高慢からなされたものではありません。
 シュタイナーは、著作の核心をズバリ直接的に書いていません。それは、読者が「問い」を持ってシュタイナーの著作を読むことを期待したからです。
 シュタイナーの著作を読むことによって読者の思考力(純粋思考)が鍛えられて、やがて読者の純粋思考が熟したときに、直観としてシュタイナーの著作の核心が読者に「答え」として認識されるように書いているのです。
 シュタイナーは何よりも「いかにして読者/聴講者が純粋思考をおこなうことができるようになるか」をテーマとしてアントロポゾフィーの著作、講演をおこなっています。そのことがシュタイナーの講演、著作の、アントロポゾフィーの理想だからです。
 シュタイナーは、読者がシュタイナーの著作の核心の周囲を円周を描いて回るように読み進めることで、やがて読者がシュタイナーの著作の核心(中心)に読者自身の純粋思考によってアクティブ(能動的)に到達することができるように書いています。
 ドイツ語原本では、そのようにいうことができます。

 しかし、日本人翻訳者がドイツ語辞書を片手に翻訳した翻訳本はどうでしょうか。多くの翻訳本はそのようには訳されてはいません。
 多くの翻訳本の翻訳者はシュタイナーの著作の核心が理解できないために、勝手にシュタイナーの著作の核心を解釈して勝手な理解で意訳します。著作の核心(中心)がずれてしまっています。その結果、日本語としてさえも論理矛盾を含んで意味不明な翻訳になっているものが多く見られます。
 シュタイナーの著作は、その(明文化されていない)アントロポゾフィーの核心を事前に明確に把握して、改めてシュタイナーが語るように再現して訳すか、そうでなければ、大変困難なことですが、極めて原文に忠実に、誠実に直訳される必要があります。
 書店のオカルト、スピリチュアルコーナーに置かれている多くの翻訳本はそのようには翻訳されていません。翻訳本が単純に日本語の本としてどのようなレベルの本であるか評価してみてください。原本はシュタイナーが書いたのだから、立派な内容が書いてあるに違いない、流暢にドイツ語を話しているように思える翻訳者が翻訳しているのだから正確な翻訳なのだろうと贔屓目に見る必要はありません。多くの翻訳本は「裸の王様」なのです。
 それら多くの翻訳本を読んで、多くの人がアントロポゾフィーから逸らされていく現状を見ると、それらの翻訳本は、生半可に、無責任に翻訳されている、と批判せざるを得ません。

 それでは、日本語しか読めない日本人はアントロポゾフィーの核心をどのようにして把握すればよいのでしょうか?
 誰が正確にアントロポゾフィーの核心を理解しているのでしょうか?
 私の知る限り、それは極めて厳密な「論理的思考」ができる人です。
 世界的な経営コンサルタントの大前研一さんは、「世界共通語は英語ではない。世界共通語はロジカル・シンキング(論理的思考)だ!」と主張されています。私は、「論理的思考」によって矛盾なく正確にアントロポゾフィーの核心を捉え直すことが必要であると考えます。

 私は極めて論理的にアントロポゾフィーの核心を捉えているアントロポゾーフに大分で出会いました。
 そのアントロポゾーフはドイツ語は一切読めませんでしたが、極めて論理的にアントロポゾフィーの核心を捉えていました。
 彼が熟知していたのは、ドイツ語ではありませんでした。
 彼は「シュタイナーは、講演の聴衆、読者が、ギリシャの哲学/文化史と、カントの哲学と、ヘーゲルの哲学を当然知っているものとして語っている。それらの思想史に照らしてみないと、シュタイナーの講演を、そのアントロポゾフィーの核心を、論理的に理解することはできない」と明かしてくれました。
 (私は幸運にも彼を訪ね、私が大分に滞在した約7年間をかけて、彼の「アントロポゾフィー入門講座」を受講しました。彼は心筋梗塞で絶対安静を宣告されていたにも拘わらず、午後7時から長いときには5時間もホワイト・ボードの前に立ち続けてアントロポゾフィーの核心を熱く語り続けました。そして私が彼を車で自宅へ送ってゆく間も、彼の自宅に着いた後も、車の中で深夜2時まで、アントロポゾフィーの理想を語る彼の熱弁は止まることがありませんでした。)
 彼は彼の個人的な必要性から、ヘーゲルの哲学、カントの哲学、ギリシャの哲学/文化史を十余年に渡って集中的/徹底的に学び、それらに照らして、アントロポゾフィーの核心を極めて論理的に明晰に捉えていました。
 彼の語ってくれたアントロポゾフィーの核心を捉える、迫力ある論理的思考の観点から見れば、ドイツ語圏に短期(語学?文学?芸術?)留学した経験を鼻に掛けているような、香ばしい日本人翻訳者による小手先の翻訳本は、意味不明である上に、極めて幼稚なものであることが判ります。
 アントロポゾフィーの核心を論理的思考で捉えることができれば、日本語だけで十分にアントロポゾフィーができるのです。むしろ不自由なドイツ語翻訳(非論理的な思考/未完成な語学力?/翻訳者の私見)が間に介在すると読者のアントロポゾフィーを理解する道程が遠くなります。その点が大きく誤解されています。
 日本では翻訳者が「翻訳者が考えるアントロポゾフィー」の講演会をしたりしています。翻訳者が本来のアントロポゾフィーとは異なる私見を持って翻訳しているのです。翻訳者に求められるのは、誠実な翻訳作業に尽きるのであって、原本に記載されていない翻訳者の私見が意図的に翻訳本に混入されるようなことがあってはなりません。
 この翻訳問題は昨今問題視されている「マスコミの偏向報道問題」に類似した問題です。
 日本人翻訳者が翻訳した翻訳本を読むときには、「翻訳者は論理的思考ができる人物か?」「翻訳者はアントロポゾフィーの核心を理解して翻訳しているのか?」と是非問うてみて下さい。日本語としてさえ意味不明な翻訳文を例え10年間読み続けても、その中心にはもともとアントロポゾフィーの核心は無いのですから、読者は多くの無駄な時間を過ごすことになるでしょう。

 だからといって、「それでは、アントロポゾフィーの核心を判り易く、インターネット上で、例えば、このブログの上で、開示すれば良いではないか」、ということにはなりません。シュタイナーは、あえてそれをしませんでした。シュタイナーはアントロポゾフィーを理解しようとする人が自らの純粋思考によって能動的にアントロポゾフィーの核心を認識することを望みました。何故なら、現代人は、問うてもいないことへの「答え」を押しつけられたいとは思わないからです。
 (そのように意図的に設けられた大切な行間の空白にアントロポゾフィーの核心を理解していない翻訳者の私見が押し付けがましく嵌め込まれることがあってはなりません。)
 ですから、アントロポゾフィーの核心は問う人と答える人との間で直接に伝えられることとなります。あるいは正しく翻訳されたシュタイナーの著作から純粋思考によってアントロポゾフィーの核心が読み取られなければなりません。アントロポゾフィーの核心を語る人は、「問い」を発する人に直接向かい合って、その責任を感じながら、慎重にアントロポゾフィーの核心を語るのでなければなりません。アントロポゾフィーについて語り合う相手が、真剣に問うているのか、精神科学自由大学会員であるのか、普遍アントロポゾフィー協会員であるのか、あるいは、普遍アントロポゾフィー協会員ではないのか、によって答える人が語るべき内容は異なるでしょう。
 先日開催した第2回オープンハウスでは、私は、新潟から見えた誠実なアントロポゾーフの方と相互に大変有意義な対話をすることができました。そのような機会に、望ましくは、アントロポゾーフ相互の信頼関係の上に立って直接にアントロポゾフィーの核心について互いに語る機会を持つことができると思います。
 (第2回オープンハウス報告はこのブログでも追ってしたいと計画しています。)

 しかし、そのような機会だけでなく、より多くの日本人に自らの純粋思考によってアントロポゾフィーの核心へと至る道を示すためには、日本語による正しい翻訳文を、私達の普遍アントロポゾフィー協会-邦域協会日本が長期的なスパンで作成してゆく必要があると考えています。それについて、私は、邦域協会日本の理事会/運営会に「公開されている英語の翻訳本を基にして、日本語の翻訳本を作成する翻訳研究会(読書会)を作りませんか?」と提案しています。何故なら日本人にとって英語はドイツ語よりも馴染み深く(より多くのアントロポゾフィーの核心を理解したいと望む人が参加することができ)、より感覚的、直接的に思考内容を表現する言語であるからです。
 私は、その翻訳研究会(読書会)での英語から日本語への翻訳作業を通じて生じる疑問を、アントロポゾフィーの核心への理解を以て解決する経験によって、世界共通語となりつつある英語で世界に向けてアントロポゾフィーのメッセージを発信することができるアントロポゾーフが出現するのではないかと考えています。翻訳者の成長を待たなければなりませんので、すぐには、十分な日本語翻訳本はできないとは思いますが、この仕事に参加する翻訳者の成長と共に、将来的には邦域協会日本が公認することができる日本語翻訳本を邦域協会日本から出版することができればと構想しています。(まだ企画段階なので、参加希望者が名乗り出ていただけると実現がより近くなります。)

 また、現存する、例外的に優れた日本語翻訳本とその訳者の方々との連携を強めてゆくべきと構想しています。先に私は書店のオカルト、スピリチュアルコーナーに並ぶ多くのいいかげんな翻訳本について批判をしましたので、それとは対照的に、私が最も優れた日本語翻訳本の一つと考える翻訳本を御紹介させていただきます。私が買い求めたときは、この本はオカルト、スピリチュアルコーナーではなく、文学、人文科学コーナーに置いてありました。出版社や書店もなかなか判っているなと後に感心しました。

 私が最も優れた日本語翻訳本と考えるのは、「ゲーテの世界観」(GA6)(ルドルフ・シュタイナー著/溝井高志訳/阪南大学翻訳叢書/晃洋書房)です。

 どうぞこの優れた翻訳本と、皆さんが読み慣れた(どれがとは言いませんが)オカルト、スピリチュアルコーナーに並ぶ多くのいいかげんなシュタイナー本(翻訳本)とを読み比べてみて下さい。両者が明らかに異なることが判るでしょう。この優れた翻訳本を正しく真剣な「問い」を以て繰り返し読めば、この本は、皆さんに少なからずアントロポゾフィーの核心を開示することでしょう。そして、このような優れた翻訳本と、そうでないものとの違いに気付いていただけるものと思います。

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真の「報道の自由(freedom of the media)」を求めて

 「報道の自由(ぶしつけ)(liberty of the media )」を堅持する日本のマスコミに対して国民は真の「報道の自由(freedom of the media)」を求めています。
 しかし、日本のマスコミが真に自由(Freedom)となる日が来ることはないでしょう。
 何故なら、真の自由(Freedom/Freiheit)とは自由な個人の倫理的行為の上に実現されるものですから(ルドルフ・シュタイナー「自由の哲学」Philosophie der Freiheit )。
 デモ隊の諸君並びに国民が真の自由(Freiheit)を体現することを願います。

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思考停止した日本

 原発事故後の日本は閉塞感に覆われています。非常事態下の首相は無為無策で、食べ歩きと醜聞だけが漏れ伝えられてきます。復興に向かうべき理想や希望は私達の元には伝えられてきません。日本は完全に思考停止に陥っています。
 一方、日本の原発事故の報に触れたドイツやイタリアでは、国会や国民投票による意思決定を経て、脱原発に向けた方針転換が始まりました。反対に、イギリス、フランス、アメリカでは、原発推進を堅持しようとしています。原発を自ら開発し、運用してきた西洋社会には、脱原発であっても、原発推進であっても、自らの主体的な思考が存在するのです。
 これに対して日本では、西洋社会が作り出した原発を(特に原子力村のような利権集団が)深い考えもなく輸入してきただけだったので、日本の中で原発をどのように位置付ければよいのか、いまさらながら定めかねている状態です。
 日本は西洋社会から表面的な科学技術を輸入するだけで、科学技術を生み出す科学、さらには科学と一体となって西洋社会の価値観を形成する宗教や芸術を全く顧みることがありません。
 そうした日本の姿勢によって、西洋社会の「いい所取り」ができているならば、何の問題もありません。しかし、今回の原発事故で明らかになったように、物事を表面的にしか理解することのできない日本が西洋社会の「いい所取り」をすることができるはずもなく、実際には日本は一身に西洋社会の「悪い所取り」をしてしまっているのです。
 科学技術は使い方によっては大変便利なものですが、原発事故に限られず、多くの不慮の(想定外の)事故を引き起こし、多くの人々がその犠牲となる負の面を持っています。また、科学技術は、ビジネスの生産性を大きく高めますが、その分、人々の雇用の機会が奪われるという負の面も持っています。それらのことを顧みず、日本人は(西洋社会から)「エコノミック・アニマル」と呼ばれながら、輸入した科学技術と思考停止しておこなう労働だけを信じて働いてきました。日本人には科学技術を用いてビジネスをする以上に価値のあることはなく、科学技術と労働が、いつの日かきっと日本人を幸せにしてくれると信じていました。
 皮肉なことに、その労働の結果として多国籍企業に成長した日本の大企業は、国内にワーキング・プアを生み出しながら、無節操にドル札を刷り続けるアメリカのウォール街に日本の富を一方的に献上し続けた末に、原発事故による電力不足を理由として、日本を去ると言い出しました。日本人は科学技術と多国籍企業に同時に裏切られてしまいました。
 日本が経済的に没落すれば、日本人はただの「アニマル」になってしまうのでしょうか。そうなってしまう前に、日本人が今度こそ本当に幸せになるために、科学をどのように人間のために役立てれば幸せになることができるのか、という問いについて深く考えてみる必要があると思います。
 科学を生み出した西洋社会は、有史以来、科学を宗教や芸術に対してどのように位置付ければ人間は幸せになることができるのか、という問いに取り組んできました。西洋の科学は宗教と芸術と三位一体となってキリスト教会の中で育まれてきました。
 文明の「いい所取り」は、日本ではなく、成熟した西洋社会で成されています。日本は文明の「いい所」がどこなのか理解することさえもできません。日本は科学技術を輸入して用いていることを以って(携帯電話やTVを使っていることを以て)、西洋社会の一員に仲間入りしたものと錯覚していますが、科学においても、宗教においても、芸術においても、西洋社会に仲間と認めてもらえる程の常識は、もともと日本人にはありません。
 日本の為政者は、長い間、孤島での鎖国政策をとってきた上に、太平洋戦争終結に至るまで、日本人には宗教の自由すら認められていませんでしたので、日本人は、中世においてキリスト教を体験する機会を永遠に失いました。日本人には、為政者のために都合のよいと認められた宗教(国家神道や檀家仏教制度)のみが認められ、日本人は為政者によって略完全に監視されて弾圧されたキリスト教だけでなく、為政者による巧妙な形骸化のために、その本質を失った仏教や神道さえも十分に理解することができませんでした。そのため、現代の日本人の中には、さらに時代を遡って、シャーマニズムに救いを求めようとする日本人が数多くいるそうです(「パワースポット参り」なるものが流行しているそうです)。
 しかしながら、それは日本だけに限られた不幸な歴史の結果なのであって、西洋社会がいまさらシャーマニズムに先祖返りしたりするわけがありません。彼ら(西洋社会)は確かな歩みでシャーマニズムを脱し、中世にはキリスト教徒となって、現代ではさらにアントロポゾフィーに代表されるような、新たな認識の道を歩み始めようとしているのです。
 日本では、アントロポゾフィーを表面的に真似ようと(表面的に輸入しようと)して、アントロポゾフィーの中心に仏教を据えようとしたり、シャーマニズムを据えようとしたりする人が数多く居るようですが、それらはとても不思議な光景です。彼らがアントロポゾフィーの中心にシャーマニズムや仏教を置こうとしている理由は「日本には日本のアントロポゾフィーがある」からだとされていますが、本当は、悲しいことに、彼らは西洋社会が経験したキリストを知らないのです(アントロポゾフィーの中心にはキリストが置かれていることを知らないのです)。
 キリストは2000年前にキリストの周囲に集まった群衆に、多くの例え話をして聞かせました。それは群衆が未だ十分に悟性を発達させていなかったからです。群衆は、悟性的に理解することなく、キリストの例え話を魂によって宗教的に理解しました。しかし、キリストは十二使徒に向かっては群衆に対しておこなった例え話の意味を悟性的に語って聞かせました。(十二使徒は現代の私達と同じ悟性を2000年前に十分に発達させていました。)
(キリストは、人間を誘惑する2つの悪(拝金(唯物論とエゴイズム)と現実逃避)に立ち向かい、死にゆく肉体を不死の精神によって克服することで、普遍人間的な課題の解決への道を開きました。だからこそ2000年間に渡って、キリスト教は西洋社会の人々の信仰の対象となったのでした。「拝金と現実逃避」は日本における原発事故においても、その根幹を成す問題といえます。)
 西洋の社会は、中世において、宗教的に(魂によって)キリストを理解した後に、現代において、知的に(悟性によって)キリストを理解しようとしています。西洋の社会には、歴史と共に培ってきたキリストを理解するための土壌があるのです。
 一方、現代の日本では(戦後において)、キリスト教の布教が弾圧されることなく行われるようになりましたが、(今さら)現代人が(特に大人は)、中世の時代の人と同様に、「キリストは処女から生まれて死んで3日後に不滅の肉体を伴って復活した」との例え話を、いくら日本人でも信じることは困難です。日本人(日本の文化)はキリスト教徒として生きる機会を永遠に逃しました。悲しいことですが、同様に、日本人は今さら2000年をかけてシャーマニズムからやり直すわけにもいかないのです。
 例外的に、日本(の文化)の中にも中世の時期にキリスト教に触れることができた極限られた地域がありました。例えば、大分や長崎、熊本などです。大分や長崎、熊本では多くのキリスト教徒が処刑されて亡くなりましたが、確かに、適切な時期に、日本のそれらの地にキリスト教が息付いていました。私は暫く大分に住んでいた経験がありましたので(現在は東京在住ですが)、大分の地で、日本においては奇跡的に、現代にふさわしく適切に認識されたアントロポゾフィーに触れる経験を持つことができました。この他にも、キリスト教は仏教の一派とされた景教として日本に伝えられていたものともいわれています。ですから、シャーマニズムにまで戻らなくても、日本の文化の中には、極めて限定的ではありますが、奇跡的に、西洋社会と共に適切な時期に、キリスト教を経験した文化が、隠れてではありますが、探せば存在するのです。
 そのような文化を土台として、日本においても西洋と同様に、普遍的なアントロポゾフィーが正しく理解され、日本人がより深く、現代的に、科学、宗教、芸術の分野において西洋社会並みの世界観を持って、深い認識を持つことこそ、日本人が原発事故からの復興に向けて、また、日本人の幸福に向けて(文明の「いい所取り」ができるように)、一歩を踏み出すために必要なことなのだと思うのです。

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「死んだ思考」から「生きた思考」へ

 メルトダウンした福島の原発からは毎日膨大な量の放射性物質がなすすべもなく放出され続けています。この放射性物質は、もともと原子力発電を推進してきた一群の“原子力村”の人々が膨大なコストをかけて自然の中から抽出し、濃縮して燃料棒としたものです。
 原子力発電を推進してきた科学者グループは、火力発電所が放出する二酸化炭素が数年内に暴走的な地球の気温の上昇を招いて地球環境に重大な影響を与える危険(地球温暖化問題)があるとして原子力発電への転換を喧伝してきました。一方で、原子力発電を推進してきた科学者グループは、原子力発電所はあらゆる事態を想定して設計されているのでとにかく安全であると喧伝してきました。しかし結果的には、彼らが主張したような暴走的な地球の気温の上昇は起こることがなく、メルトダウンした原子力発電所から漏出し続ける放射性物質が世界的規模で重大な環境汚染を引き起こしています。
 原子力発電を率先して推進してきた代表的な科学者の一人は事故後に「原子力発電所自体はキット(単体)としては十分に完成度の高いものとすることができていた。これからは、自然(地震他)や社会(電源供給体制他)と、(単体での完成度が高いと自称する)原子力発電所とをいかにうまく対応させてゆけるかについてさらなる改善を検討してゆきたい」と語りました。なんと幼稚な思考でしょうか。彼ら専門家と称する科学者がいかに狭い視野によって、実際には極めて多面的な現実の狭い一面だけを見ているのかが判ります。
 さらに、彼ら原子力発電を推進してきた科学者達には、地域独占を認められた電力会社から多額の寄付金が支払われていたことが報道されています。また、その電力会社に地域独占を認めた監督官庁からは電力会社への多くの天下りがおこなわれていたことも報道されています。また、地域独占の条件では、電力会社はコストの3%を利益とすることが認められていますので、電力会社はさらにコストをかけて利益を上げるようにと、原発推進、広告宣伝、政治献金をおこなっているのではないかと改めて注目がされています。この結果、科学者、役人、電力会社、原発メーカー、マスコミ、政治家による一群の“原子力村”の存在が悪名高く世界に知られることとなりました。
 彼らは米国と比べて3倍高いといわれる東京の電気料金を基に、これからさらに彼らの原子力産業を発展させ、世界に原発技術を輸出しようとしていたところでした。しかしながら、今回の原発事故で、彼らはその信用を失墜し、国民の大きな反感を買い、損害賠償責任を負い、日本の経済を縮小させ、大きく利益を失うこととなりました。“原子力村”の終わりが始まりました。彼らは事故前までは日本で最も知性が高く最も成功した人々と思われていました。今では彼らは最も愚かで憐れむべき人々といえます。私達は彼らのような視野の狭い、エゴイズムに陥った一面的な知性しか持つことはできないのでしょうか?「死んだ思考」をいくら巡らせても「答え」は得られません。
 死にゆく肉体が必要とする日々の糧を得るために、石をパンに換えるために、一面的な狭い物の見方だけに執着し、果ては自ら滅びてゆく、このような「死んだ思考」の限界を超えて、不死の精神に立脚して、多面的で生き生きとした現実(真実)に向かい合うことができる「生きた思考」をおこなうことはできないのでしょうか?
 ルドルフ・シュタイナーは主著「自由の哲学」で、「表象に対する思考(“知覚対象と表象”における表象に対する思考)」を超える、より高度な思考として、「概念内容の純粋直観(概念内容を理念の世界から取り出してくること)」により「純粋思考」をおこなうことができることを明らかにしています。
 「理念の世界」とは、ソクラテス、プラトンおよびアリストテレスが見ていた「イデアの世界」です。すなわち、「死んだ思考」により感覚の世界と精神の世界との間に横たわる深淵に向かい合い、思考主体である精神として深淵を超えて「イデアの世界」に向けて「問い」を発し、イデアの世界から「答え」を受け取る。これがルドルフ・シュタイナーのいう「純粋思考」であり「生きた思考」です。
 「死んだ思考」と「生きた思考」の最大の差異は、「死んだ思考」が(人間の外界において)肉体に基づいて知覚される「知覚対象」に応じて(人間の内面において)「表象」として現れる、その「表象」についての思考であるのに対して、「生きた思考」は、不死の精神に立脚しておこなう、例えば「発明」のように、考え抜いて、問い続けた「問い」への答えとして「イデアの世界」から「閃き」としてもたらされる「直観」であることです。
 ですから、深い思考によって物質の世界を脱して(精神として)深淵を超え、精神の世界(イデアの世界)に至るような思考をおこなうことにより「問い」を発することができると共に、「イデアの世界」(精神界)から問いに対する「答え」を受け取ることができなければなりません(このように理念の世界(精神界)に生きることを瞑想、熟慮meditationといいます)。また、「純粋思考」をおこなうためには、「答え」を与えてくれる「イデアの世界」(精神界)との生き生きとした関係を築かなければなりません。
 「死んだ思考」に対しては「イデアの世界」(精神界)はいつまでも沈黙し続けるでしょう。また、「問い」が適切でなければ、「イデアの世界」(精神界)が答えることはないでしょう。「イデアの世界」(精神界)への参入は「秘儀参入」として知られています。秘儀参入者「パルツィファル」が「聖杯の城」で「正しい問い」を発することができるか否かを問われるように、「純粋思考」をおこなうためには、適切に「問い」を発する能力が求められます。それについてはルドルフ・シュタイナーの「いかにしてより高次の世界の認識を獲得するか」に詳しく記されています。そして正しい「問い」は「イデアの世界」への参入の道を指し示すことでしょう。正しい「問い」が現代の「聖杯の城」としての「普遍アントロポゾフィー協会」を指し示すことでしょう。「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。」です。
 アントロポゾフィーでは、科学、芸術、宗教の各分野において人間を一元的に捉えます。
 「科学」とは「純粋思考により新しい宇宙(世界)を認識する」フェーズをいいます。
 「芸術」とは「純粋思考により自ら認識する新しい宇宙(世界)を模倣する」フェーズをいいます。
 「宗教」とは「純粋思考により自ら認識する新しい宇宙(世界)と合一する」フェーズをいいます。
 ですから、「純粋思考」によりアントロポゾフィー(精神科学)の認識(科学)ができるようになる前に、アントロポゾフィーの「芸術」や「宗教」ができるようになるはずがありません。「純粋思考」を通過することなしに「純粋感情」や「純粋意志」に到達することはありえません。
 自ら認識をおこなうことなく(正しい「問い」を発することなく)、オイリュトミーや教育等の「芸術(テクニック)」にのみ関心を持ってアントロポゾフィーを求める人や、キリスト者共同体(普遍アントロポゾフィー協会とは別の組織です)に所属してアントロポゾフィーをおこなうことができると考える人がいるかもしれませんが、それは「死んだ思考」に基づく「地上の(普通の)芸術」や単なる「信仰」であって、「アントロポゾフィーの芸術」や「アントロポゾフィーの宗教」にはなりえません。そのような人が例え「シュタイナー教育」をおこなっていると主観的に思い込んでいても「自由ヴァルドルフ教育」にはなっていないでしょう。子ども達に「死んだ思考」で接しても何ら有意な影響は現れないでしょう。
 アントロポゾーフは例え未熟で「イデアの世界」(精神界)からの「答え」が得られない段階においても、「イデアの世界」(精神界)に向けて正しい「問い」を発することができるように、「イデアの世界」(精神界)との関係を構築することができるように、認識の道を、「純粋思考」を求めなければなりません。
 アントロポゾフィーを求める者にとっては、まずは「死んだ思考」を脱して「生きた思考」(「純粋思考」)をおこなうことができるかどうかがすべてを決定付ける鍵であり、厳粛な選別の篩(ふるい)なのです。

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オープンハウス報告

 4月3日に邦域協会日本のオープンハウスを開催しました。
 オープンハウスはこれからアントロポゾフィーを学び始める方、未だ協会員でない方を中心として、「現代を生きる」をテーマに参加者の方の現実の思考とアントロポゾフィーの思考とを結ぶ場としたいと考えています。
 今回のオープンハウスでは、まず、上松佑二さんに「ニーチェとシュタイナー」についての基調講演をいただきました。
 ニーチェと同時代人のシュタイナーは「自由の哲学」を書き上げた後にニーチェを読んでニーチェを高く評価し、ニーチェの妹エリザベートの依頼で既に発狂していたニーチェの文庫の整理をおこない、また、病床のニーチェにも会いましたが、既にニーチェとシュタイナーの視線が合うことはありませんでした。
 ニーチェは、「宗教の教義に順じてキリスト教徒として生き、また、因習に順じて現代人として生きる同時代人」を虚弱で勇気の無い精神の持ち主として批判する一方で、「無神論者として、自らの本能にのみ従いながら、超人を目指して生きる」強靭な精神の持ち主をその理想として「ツアラトゥストラかく語りき」に描きました。
 シュタイナーは、ニーチェの現代人批判に深く共感し、高く評価しましたが、ニーチェが理想とするように、「自らの本能のみに従う」場合には、自らの本能の奴隷となってしまうものと警告しました。
 シュタイナーは、ニーチェがギリシャにおけるディオニュソスの精神に憧れながらも、その源流に位置するオルフェウス密儀やエレシウス密儀に示された叡智の扉を開くことができず、また、「人間とは動物から超人に至る深淵の上に張り渡された一本の綱である。この綱を渡り切るまでは、立ち止まることも、振り向くこともできない」と現代人を克服する超人に憧れながらも、人間の根源的叡智に直結する精神科学(アントロポゾフィー)への扉を、開くことができなかったことにニーチェの悲劇があったと考えました。
 シュタイナーは、自らの本能にのみ従う人間は「自由な人間」とはいえないと考えました。シュタイナーの考える「自由な現代人」とは、(本能(潜在意識、生命)の力を統御して、)明瞭な思考を意識的に展開することができ、また、自らの思考により認識した理想にのみ従う人間であることが、精神科学(アントロポゾフィー)の基礎に置かれる「自由の哲学」に記されています。
 シュタイナーは、ニーチェが、同じく同時代人の「絶対自由者」、「唯一者」を唱えたマックス・シュティルナーと出会えたならば、彼が憧れた「超人」に出会えただろうとシュティルナーを高く評価していました。(上松佑二さんは、日本におけるマックス・シュティルナーはと考えると、「織田信長」であると考えられると明かしてくれました。)
 上松佑二さんによる「ツアラトゥストラ」の全体を的確に要約し、「ニーチェとシュタイナー」の交流と思考とを対比して示していただいた素晴らしい講演の後に、それぞれの参加者の皆さんのお話をうかがいました。今回は7人の方の御参加をいただきました。
 ある参加者の方からは、今回の福島の原発事故について、低放射線の人体への影響を調査する科学者が「原発事故によって放出された放射性物質のおかげで日本の放射線量はとても健康に良い環境となった、福島の農産物を食べるととても健康になる」という話をされているとの紹介がありました。しかし別の参加者からは、今から25年前のチェルノブイリ原発事故では、半径300km圏内の住民の甚大な健康被害が報告され、NHKでも「チェルノブイリ原発事故・終わりなき人体汚染」として特集がされているとの異論もありました。
 また、そのNHKをはじめとする日本のTVに出演する科学者は「人体に存在する放射性カリウムやレントゲン撮影、航空機での高高度飛行に比べれば現在の被曝量は僅かなもの」、「プルトニウムも僅かな量が検出されただけ」として「安全、安心」を呼びかけていますが、つい先日まで、たとえ僅かな量ではあっても「オゾンホールにより増加する紫外線」や「焚火や焼き鳥をしても発生するダイオキシン」は発がん性があるので見逃すことはできないとしていた別の科学者の意見と比べて矛盾があるのではないかとの指摘がありました。
 この疑問について参加者一同で話し合いました。最初に御意見をいただいた参加者の方は、一体何を信じればよいのか判らないと意見されておられました。
 シュタイナーは科学について、「科学は真実のある一面だけをとらえるのみである。そのため、ある一面的な事実についてある視点から極めて厳密な証明をおこなうことができる一方で、これとは正反対の他の一面的な事実についても他の異なる視点から極めて厳密に証明をおこなうことができる」としています。
 イマヌエル・カントは「真実は深淵の向こうにあって、人間が真実を知ることはできない」としました。
 これに対してニーチェは「科学者のように、真実が自らの前におのずと姿を現すことを待つ精神は、宗教、因習に従う精神と同じく、虚弱で勇気の無い精神である。強靭な精神の持ち主は真実を自ら定める」とします。マックス・シュティルナーも「真実は私と共にある。真実は私が定める。」というのではないでしょうか。科学は後知恵であるといわれます。こういう時ほどニーチェやシュティルナーの精神に勇気づけられることはありません。
 これらの精神に勇気づけられながら、アントロポゾーフは考えます。「科学者の思考は純粋でない思考(「純粋思考」に至らない思考、日々の糧を必要とする、死にゆく肉体に基づいた思考、主観的で不自由な思考、「死んだ思考」)である。科学者が思考を展開する意志は地上のしがらみにとらわれて不自由であり、真実には到達できない。私達は自らおこなう「純粋思考」(自我が自我について考える時のような、(精神が精神について考える時のような、)肉体に基づかない思考、自由な思考、主観と客観とを超える思考、「生きた思考」)によって真実を認識し、自らの理想(行動目標)を意識的に定めたい」と。
 一面的な話のみをする科学者を御用学者といって批判しても仕方がありません。彼らの多くは元々、日々の糧を得るために大学に入り、日々の糧を得るために研究をして、多くは、立場上、研究資本提供者の要望通りの一面的な事実を述べているだけなのです。雇われ科学者が自由に「生きた思考」をおこなうことは立場上できないのです。一面的な話のみをする科学者に人間の理想や倫理を求めても仕方がありません。
 私達は自由な人間として自ら思考して真実を見極めなければなりません。そして今回のような救いの無い事故の中にも人間の理想や希望を見出すことができるでしょう。この論点を提供していただいた参加者の方は、福島にある十基すべての原発を「直ちに」廃炉にすることを総理大臣、東電会長に求める署名を持参しておいででした。福島の原発事故をきっかけとして安全神話が崩壊した世界中の多くの原子炉が廃炉となるのであれば、それは希望といえるかもしれません。
 また、他の論点として、他の参加者の方からは「地震以来、日本精神史に照らして、東北・関東地方の神社について調査をしたが、自然を祀る数多くの神社が存在していた。中でも、源頼朝が納め太刀をした大山寺が大きく関心を引いた」等のお話がありました。古来、日本人は自然を敬い、数多くの神社を祀って、武将であっても神社に最大の敬意を払っていたように、日本人は自然と豊かな関係を築いていたものといえます。それは、農産物や海産物の全てが自然から与えられ、人の世の権力者といえどもそれを意識していたためともいえます。しかしながら、現代の日本人は、科学技術に浸った暮らしに季節感を忘れ、自然を意識することなく軽視して、自然ではなく、貨幣を与えてくれる人の世の権力者がまるで私達を養ってくれているかのような幻想を抱いていたのではないでしょうか。
 農家の皆さんが例えばキャベツを生産するためには、農家の皆さんがおこなう農作業もさることながら、地球に昼夜と四季が訪れるために、音速を超える速度(赤道上)で地球が自転すると共に、約1億5千万kmという遠大な公転半径で地球が太陽の周りを周回する壮大な運動がなされていることを意識すると、また、太陽や月や惑星の光と作用とがいつも大地に注がれていることに意識を向けると、大地が育むキャベツがいかに得難く貴重なものであるかを意識することができます。大地、水、空気、宇宙がいかに私達を育んでくれているかを意識することができます。
 原発事故は死の灰によって私たちを育む自然を汚染しました。私達はこれから、私達の意識から薄れていた自然(土、水、空気、宇宙)と私達の関係をより明確に意識させられることでしょう。本当は何が私達を養ってくれているのかを再び意識することになるでしょう。
 他にも多くの論点について、全ての参加者の方のお話をうかがうことができました。原発事故後の東京に遠く九州から駆け付けてくれた(私も九州でアントロポゾフィーを共に学んだ)アントロポゾーフもいました。彼女は今アントロポゾフィー農法について学んでいるとのことです。(先のチェルノブイリ原発事故ではアントロポゾフィー農法により生産された作物が放射能汚染の影響を受け難いとして注目されました。)原発事故の恐怖に日常生活を必要以上に崩されることなく、内的平静を保って事態に対処してゆければと思います。今後もまた「オープンハウス」を企画して皆さんのお話をうかがいたいと思います。より多くの皆さんの御参加をお待ちしております。

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東日本大震災で被災された皆様へ心よりお見舞いを申し上げます

東日本大震災で被災された皆様へ心よりお見舞いを申し上げます。
東京に暮らす私の日常も一変致しました。
再び穏やかな日常を取り戻すことができる日まで共に耐え忍んで参りましょう。
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万人の万人に対する戦い

 普遍アントロポゾフィー協会の中核には精神科学自由大学が存在します。
 普遍アントロポゾフィー協会の協会員の入会条件では「機関としての精神科学自由大学の存在の意義を認める」ことが挙げられています。
 普遍アントロポゾフィー協会に入会した普遍アントロポゾフィー協会員が、精神科学自由大学の活動をおこなう精神科学自由大学会員となるためには、「少なくとも2年間以上、普遍アントロポゾフィー協会の会員であり、アントロポゾフィーに関する事柄の代表者たる意思を持つ」ことが条件とされています。
 条件を満たす普遍アントロポゾフィー協会の協会員は精神科学自由大学会員となるための申請をすることができます。
 大学会員証を与えられた精神科学自由大学会員には精神科学自由大学の内容について一切口外しないことが義務付けられます。

 精神科学自由大学の理解なくしてアントロポゾフィーの理解はあり得ません。
 ルドルフ・シュタイナーはその著書に「本書は精神科学自由大学第一クラスのために書かれる。それ以外の者による本書の解釈は正当であると認めない。」と記しています。(精神科学自由大学会員でない翻訳者による翻訳本で翻訳されているかどうか定かではありませんが。)
 このため、普遍アントロポゾフィー協会の協会員であっても、精神科学自由大学会員でなければ、正当にアントロポゾフィーを理解しているとはいえません。
 ましてや普遍アントロポゾフィー協会の協会員でなければ、正当にアントロポゾフィーを理解しているとはいえません。
 精神科学自由大学会員の全てが正当にアントロポゾフィーを理解しているとは言えませんが、少なくとも精神科学自由大学会員でなければ、正当にアントロポゾフィーを理解することはできません。
 個々の精神科学自由大学会員が正当にアントロポゾフィーを理解しているかどうかは、精神科学自由大学に参加する他の個々の精神科学自由大学会員によって判断されることでしょう。
 精神科学自由大学会員は精神科学自由大学の内容について一切口外することはできませんが、精神科学自由大学会員によって正当に理解され、正当に受け取られたアントロポゾフィーの精神(アントロポゾフィア)は精神科学自由大学会員による普遍アントロポゾフィー協会での活動を通じて、他のアントロポゾフィーの認識を深めようとする普遍アントロポゾフィー協会員にまで共有されます。

 普遍アントロポゾフィー協会-邦域協会日本の中核にはゲーテアヌムによって認められた精神科学自由大学の第一クラスが存在します。
 精神科学自由大学の第一クラス(クラッセンシュトゥンデ)は邦域協会日本において継続的に開催されています。
 私も精神科学自由大学会員の一人です。
 
 しかしながら、精神科学自由大学の活動を有することなく、アントロポゾフィーについての正当でない勝手な解釈をおこない、勝手な解釈に基づいて(アントロポゾフィーを理解することなく巧妙にも「実践する」と称して)活動をおこなう組織が日本にも数多く見られます。
 また精神科学自由大学会員ではない人によって翻訳されたアントロポゾフィーの翻訳本、精神科学自由大学会員でない人のアントロポゾフィーの解釈をまとめた解釈本が数多く出版されています。
 さらに、インターネット、カルチャースクール、文化サークル等のさまざまな局面で精神科学自由大学会員ではない人による多くのアントロポゾフィーについての勝手な解釈が開示されています。
 それらの勝手な解釈は正当な解釈であるとはいえません。

 もちろん、文化多元論的には、ある人が、例えば数学を学んだことがなくても、数学について「勝手に解釈する自由」があるのでしょう。(言論の自由もあるでしょう。)
 しかし、その「勝手に解釈する自由」とはアントロポゾフィーが警告するところの人類の文化の墓場としての(トーマス・ホッブズの唱えた)「万人の万人に対する戦い」へとつながる自由なのではないでしょうか。(その人はもはや誰とも自らが解釈する数学について意見の一致を見ることはないでしょう。)
 そのような「勝手に解釈する自由」を選択する人には、自ら多くの誤謬を背負い込んだまま「万人の万人に対する戦い」の中で、万人に対して正当性を争って(独自の解釈に基づく数学の正当性を主張して)、多くの不毛な犠牲をはらうことを選択する自由があるというのでしょう。
 アントロポゾフィーでは「勝手に解釈する自由」を否定することはしません。
 アントロポゾフィーではそのように自らの内に誤謬を抱え込み、自ら多くの犠牲を払いながら人類に自由を提供する悪を「悪の秘儀(供儀)」として価値あるものと捉えます。誤謬を抱えた存在が真実に背を向けることにより自由が生じるともいえるのです。

 しかし、「勝手に解釈する自由」を選択せず、自らの思考によって検証した永遠不変の真実(真の現実)を共に認め合う他者と共に、永遠不変の真実についての認識をさらに深め合うための共同体を形成することを選択する自由も、また一つの自由です。普遍アントロポゾフィー協会(‐邦域協会日本)は、そのように自由な個人が自らの思考によって検証した永遠不変の真実についての認識を他の協会員と共有するとともに、さらに認識を深めるための共同体です。

 アントロポゾフィーを正当に理解することは容易ではないことですが、だからといって、安易に「シュタイナーのいいとこ取りをしたい」として、自らアントロポゾフィーを正当に理解しようとする努力をおこなうことなく、自ら思考することなく、精神科学自由大学会員でない人の勝手な解釈を聞いて、その勝手な解釈を信じることは、「自由の哲学」に記されているように、自由な現代人としての要請に反し、また、自由でないがゆえに、倫理的であるとはいえないことです。
 もちろん、精神科学自由大学会員によるアントロポゾフィーの理解を聞いて、自ら思考することなく、その解釈を信じることも、自由な現代人としての要請に反します。
 シュタイナーが「私の言うことを信じるようなことはしないでください。どうぞ、アントロポゾフィーについて自ら思考して検証してください。」と言ったのは、誰か他の人の解釈を検証することなく信じるようなことは自由な現代人としての要請に反することだからです。

 そのために、普遍アントロポゾフィー協会では「精神科学自由大学としてのドルナッハのゲーテアヌムのような機関の存在に意味を認める人であれば、国籍、地位、宗教、学問、あるいは芸術的確信の相違にかかわりなく、誰もが会員になることができる」ものとしています。
 また、普遍アントロポゾフィー協会(-邦域協会日本)では、会員でなくても参加できるアントロポゾフィーについての認識を深めることができる多くの機会を用意しています。
 どうぞ、そのような機会に御参加いただいて、あるいは普遍アントロポゾフィー協会員(アントロポゾーフ)となって、さらに精神科学自由大学会員となって、自らの思考により検証して、アントロポゾフィーを正しく理解したうえで、アントロポゾフィーの正当な理解に基づいて、自由な解釈を開示してください。

 少なくとも、皆さんにアントロポゾフィーについて語る人または組織が、
・ゲーテアヌムに認められた精神科学自由大学の活動をおこなっているのか
 (無届で、自称して、精神科学自由大学の活動をおこなっているのではないか)
・皆さんにアントロポゾフィーについて語る人が精神科学自由大学(会員)であるのか
 (精神科学自由大学会員であるとしても、どのように精神科学自由大学の活動と関わっているのか
  (名ばかりで、クラッセンシュトゥンデにも永いこと出席していない会員ではないか))、
・皆さんが参加するアントロポゾフィー運動が
 精神科学自由大学会員によるアントロポゾフィー運動であるのか、
について十分に検証してください。

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