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思考停止した日本

 原発事故後の日本は閉塞感に覆われています。非常事態下の首相は無為無策で、食べ歩きと醜聞だけが漏れ伝えられてきます。復興に向かうべき理想や希望は私達の元には伝えられてきません。日本は完全に思考停止に陥っています。
 一方、日本の原発事故の報に触れたドイツやイタリアでは、国会や国民投票による意思決定を経て、脱原発に向けた方針転換が始まりました。反対に、イギリス、フランス、アメリカでは、原発推進を堅持しようとしています。原発を自ら開発し、運用してきた西洋社会には、脱原発であっても、原発推進であっても、自らの主体的な思考が存在するのです。
 これに対して日本では、西洋社会が作り出した原発を(特に原子力村のような利権集団が)深い考えもなく輸入してきただけだったので、日本の中で原発をどのように位置付ければよいのか、いまさらながら定めかねている状態です。
 日本は西洋社会から表面的な科学技術を輸入するだけで、科学技術を生み出す科学、さらには科学と一体となって西洋社会の価値観を形成する宗教や芸術を全く顧みることがありません。
 そうした日本の姿勢によって、西洋社会の「いい所取り」ができているならば、何の問題もありません。しかし、今回の原発事故で明らかになったように、物事を表面的にしか理解することのできない日本が西洋社会の「いい所取り」をすることができるはずもなく、実際には日本は一身に西洋社会の「悪い所取り」をしてしまっているのです。
 科学技術は使い方によっては大変便利なものですが、原発事故に限られず、多くの不慮の(想定外の)事故を引き起こし、多くの人々がその犠牲となる負の面を持っています。また、科学技術は、ビジネスの生産性を大きく高めますが、その分、人々の雇用の機会が奪われるという負の面も持っています。それらのことを顧みず、日本人は(西洋社会から)「エコノミック・アニマル」と呼ばれながら、輸入した科学技術と思考停止しておこなう労働だけを信じて働いてきました。日本人には科学技術を用いてビジネスをする以上に価値のあることはなく、科学技術と労働が、いつの日かきっと日本人を幸せにしてくれると信じていました。
 皮肉なことに、その労働の結果として多国籍企業に成長した日本の大企業は、国内にワーキング・プアを生み出しながら、無節操にドル札を刷り続けるアメリカのウォール街に日本の富を一方的に献上し続けた末に、原発事故による電力不足を理由として、日本を去ると言い出しました。日本人は科学技術と多国籍企業に同時に裏切られてしまいました。
 日本が経済的に没落すれば、日本人はただの「アニマル」になってしまうのでしょうか。そうなってしまう前に、日本人が今度こそ本当に幸せになるために、科学をどのように人間のために役立てれば幸せになることができるのか、という問いについて深く考えてみる必要があると思います。
 科学を生み出した西洋社会は、有史以来、科学を宗教や芸術に対してどのように位置付ければ人間は幸せになることができるのか、という問いに取り組んできました。西洋の科学は宗教と芸術と三位一体となってキリスト教会の中で育まれてきました。
 文明の「いい所取り」は、日本ではなく、成熟した西洋社会で成されています。日本は文明の「いい所」がどこなのか理解することさえもできません。日本は科学技術を輸入して用いていることを以って(携帯電話やTVを使っていることを以て)、西洋社会の一員に仲間入りしたものと錯覚していますが、科学においても、宗教においても、芸術においても、西洋社会に仲間と認めてもらえる程の常識は、もともと日本人にはありません。
 日本の為政者は、長い間、孤島での鎖国政策をとってきた上に、太平洋戦争終結に至るまで、日本人には宗教の自由すら認められていませんでしたので、日本人は、中世においてキリスト教を体験する機会を永遠に失いました。日本人には、為政者のために都合のよいと認められた宗教(国家神道や檀家仏教制度)のみが認められ、日本人は為政者によって略完全に監視されて弾圧されたキリスト教だけでなく、為政者による巧妙な形骸化のために、その本質を失った仏教や神道さえも十分に理解することができませんでした。そのため、現代の日本人の中には、さらに時代を遡って、シャーマニズムに救いを求めようとする日本人が数多くいるそうです(「パワースポット参り」なるものが流行しているそうです)。
 しかしながら、それは日本だけに限られた不幸な歴史の結果なのであって、西洋社会がいまさらシャーマニズムに先祖返りしたりするわけがありません。彼ら(西洋社会)は確かな歩みでシャーマニズムを脱し、中世にはキリスト教徒となって、現代ではさらにアントロポゾフィーに代表されるような、新たな認識の道を歩み始めようとしているのです。
 日本では、アントロポゾフィーを表面的に真似ようと(表面的に輸入しようと)して、アントロポゾフィーの中心に仏教を据えようとしたり、シャーマニズムを据えようとしたりする人が数多く居るようですが、それらはとても不思議な光景です。彼らがアントロポゾフィーの中心にシャーマニズムや仏教を置こうとしている理由は「日本には日本のアントロポゾフィーがある」からだとされていますが、本当は、悲しいことに、彼らは西洋社会が経験したキリストを知らないのです(アントロポゾフィーの中心にはキリストが置かれていることを知らないのです)。
 キリストは2000年前にキリストの周囲に集まった群衆に、多くの例え話をして聞かせました。それは群衆が未だ十分に悟性を発達させていなかったからです。群衆は、悟性的に理解することなく、キリストの例え話を魂によって宗教的に理解しました。しかし、キリストは十二使徒に向かっては群衆に対しておこなった例え話の意味を悟性的に語って聞かせました。(十二使徒は現代の私達と同じ悟性を2000年前に十分に発達させていました。)
(キリストは、人間を誘惑する2つの悪(拝金(唯物論とエゴイズム)と現実逃避)に立ち向かい、死にゆく肉体を不死の精神によって克服することで、普遍人間的な課題の解決への道を開きました。だからこそ2000年間に渡って、キリスト教は西洋社会の人々の信仰の対象となったのでした。「拝金と現実逃避」は日本における原発事故においても、その根幹を成す問題といえます。)
 西洋の社会は、中世において、宗教的に(魂によって)キリストを理解した後に、現代において、知的に(悟性によって)キリストを理解しようとしています。西洋の社会には、歴史と共に培ってきたキリストを理解するための土壌があるのです。
 一方、現代の日本では(戦後において)、キリスト教の布教が弾圧されることなく行われるようになりましたが、(今さら)現代人が(特に大人は)、中世の時代の人と同様に、「キリストは処女から生まれて死んで3日後に不滅の肉体を伴って復活した」との例え話を、いくら日本人でも信じることは困難です。日本人(日本の文化)はキリスト教徒として生きる機会を永遠に逃しました。悲しいことですが、同様に、日本人は今さら2000年をかけてシャーマニズムからやり直すわけにもいかないのです。
 例外的に、日本(の文化)の中にも中世の時期にキリスト教に触れることができた極限られた地域がありました。例えば、大分や長崎、熊本などです。大分や長崎、熊本では多くのキリスト教徒が処刑されて亡くなりましたが、確かに、適切な時期に、日本のそれらの地にキリスト教が息付いていました。私は暫く大分に住んでいた経験がありましたので(現在は東京在住ですが)、大分の地で、日本においては奇跡的に、現代にふさわしく適切に認識されたアントロポゾフィーに触れる経験を持つことができました。この他にも、キリスト教は仏教の一派とされた景教として日本に伝えられていたものともいわれています。ですから、シャーマニズムにまで戻らなくても、日本の文化の中には、極めて限定的ではありますが、奇跡的に、西洋社会と共に適切な時期に、キリスト教を経験した文化が、隠れてではありますが、探せば存在するのです。
 そのような文化を土台として、日本においても西洋と同様に、普遍的なアントロポゾフィーが正しく理解され、日本人がより深く、現代的に、科学、宗教、芸術の分野において西洋社会並みの世界観を持って、深い認識を持つことこそ、日本人が原発事故からの復興に向けて、また、日本人の幸福に向けて(文明の「いい所取り」ができるように)、一歩を踏み出すために必要なことなのだと思うのです。

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