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自然科学なき日本のアントロポゾフィー

 ルドルフ・シュタイナー著「自由の哲学」には、「A Modern Philosophy of Life Developed by Scientific Methods」(「科学的方法により開発された、生活(人生)についての現代的な哲学」)という副題が付されています。私は、科学(science)をどう捉えるかはアントロポゾフィーにとって大変重要なことだと考えます。特に、自然科学(natural science)をどのように捉えるかは極めて重要であると考えます。歴史的に見ても自然科学が人を自由にしてきたからです。自然科学を理解したときに得られる自由があるのです。シュタイナーも、勿論、自然科学を理解していました。彼の語る「自由な個人」は自然科学に裏付けられています。自然科学を理解する以前の人間に自由はありませんでした。
 ルドルフ・シュタイナーは理系(science course)の人でした。ウィーン工科大学出身で、当時最先端の技術を用いる鉄道技師の家に育ちました。そして、彼のもっとも世に認められた業績はゲーテの自然科学論文をまとめたことなのかもしれません。このことは日本ではあまり注目されていないようです。
 理系には理系の物事の捉え方があります。私は理系の人間として、文系(art course or humanities course)の人よりもシュタイナーの言いたいことが良く判る面があると思っています。ただ、私のそうしたアントロポゾフィーの理解は現在の他の日本の人々のアントロポゾフィーの理解とは大きく異なるようです。私は、少なくとも自然科学を正しく理解できる人でなければアントロポゾフィーを正しく理解できないのではないかと思っています。アントロポゾフィーのためには、自然科学に基づいて厳密に思考した経験が求められ、更にその厳密な思考を用いて複雑な人間について思考することが求められるからです。
 日本の文系的なアントロポゾフィーの現状や意味不明な日本語翻訳本には厳密な思考の痕跡が見出せません。もっとも、それらのものに対峙したり改善しようとしても何も得るところはないので、私はそのようなものとは異なるということだけをはっきりさせて、そういう日本の現状とは距離をとって、英語のシュタイナーの論文、講演集を少しずつ私が納得する日本語翻訳に翻訳していこうと思っています。誰かに見せたくて翻訳するわけではありません。自分の認識を明確に確認したいだけです。「これで辻褄が合います。これで正解です」と。日本語は私の母国語ですから、最も明確に文章にできるはずです。
 そのように苦労して得た認識は今のところこのブログでも公開したくありません。このブログはもともとアントロポゾフィー協会の外に居て、アントロポゾフィー協会の手前までやって来ようとする人のために書いているつもりです。これ以上のことは、私が共にアントロポゾフィー協会を作ってゆきたいと思える人とだけ共有したいと考えています。そして、それはその人が普遍協会員であるということだけでは十分ではないということを特に最近強く意識するようになりました。一頃は、それがどのような形であるとしても、私は邦域協会員と共に認識を共有し、活動してゆくべきではないかと考えていましたが、それは違いました。それでは私に自由がありません。私は最近、ゲーテアヌム直属の独立会員になりましたので、私が共に活動してゆきたいと思える人を自由に探してゆきたいと考えています。もっとも、そういう人が見つからなくても特に困りませんが。何故なら、これは私が専ら自分だけのために純粋に認識しているだけのことなのですから。その純粋さ、健全性には自信があります。幸いにも、私はアントロポゾフィーを商売にしておりませんので。
 自然科学は人間にとって特別な存在です。他のことについては各人が好きなようにあれこれ勝手に解釈して勝手なことを言うことができます。文化多元論だとか人治主義だとかいうのでしょう。その場合には、王様か、殿様か、学者か、他の人の勝手な言い草に否応なく付き合わされます。昔の人は専らそのように生きてきました。一方で、自然科学についてあれこれ勝手に考えることは無駄なことです。誤った考えは厳しい自然によって正されます。誰であっても、自然科学について人間は遅かれ早かれ正しく学ぶこととなります。ダメな原発はどんなに権力のある役人や高名な学者が運転していてもメルトダウンしてしまいます。
 同じ自然を見てもそれから学ぶか学ばないかは個人の自由です。その過程で、一方で王様や殿様や学者の権威は失墜し、他方では工業によって自由となった個人が生まれてきました。自然科学の認識の主体は個人です。一方で、自然は普遍的な存在です。そして、自然科学を認識することによって、多くの人が人治主義から脱して平等になり、自由になりました。アントロポゾフィーも自然科学と同様に普遍的な認識を求めるものです。
 正しい自然科学はどんな言語によってでも語ることができます。自然科学は普遍的だからです。何語にでも正しく翻訳できます。それは、翻訳者が「正しく自然科学を理解していれば」ですが。「自然を愛する」と自称するだけの芸術家的な翻訳者が正しく自然を理解しているとはいえません。先ずは、シュタイナーが何を語ったのかを正しく理解することが必要です。アントロポゾフィーの中で自然科学がどのような位置付けにあるのか。自然とは何か。意味不明な翻訳文を見るたびに、シュタイナーが書いたドイツ語原典をドイツ語で読んでも自然科学を理解できない人にはシュタイナーは判らないのだということだけが良く判ります。それは西洋人にとっては自明なことが東洋人には理解できないからなのかもしれません。あるいは、日本においては理系教育と文系教育の差なのかもしれません。
 自然科学が理解できる理系の人は、自然科学が理解できない文系の人の翻訳を介さずに、ドイツ語により近い英語でシュタイナーを自ら読むことが一番の近道ではないかと思います。西洋人が訳した独英翻訳の方が、文系教育された東洋人が訳した独日翻訳に比べて誤訳が入り込む余地が少ないからです。自然科学論文と同じことです。文系翻訳者が間に入ると論旨が判らなくなります。シュタイナーの略全ての論文や講演記録は英語で無料で読むことができます(The Rudolf Steiner Archive)。
 理系の人が無駄(話)を嫌うことは良く承知しています。日本語訳本を読んで嫌悪感を覚える理系の人は、シュタイナーを「自然科学を理解していない人」と断定する前に、翻訳者を疑ってみましょう。翻訳本を読むのは無駄かもしれませんが、シュタイナーを読むことは無駄ではありません。それが一番言いたいことです。


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