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「死んだ思考」から「生きた思考」へ

 メルトダウンした福島の原発からは毎日膨大な量の放射性物質がなすすべもなく放出され続けています。この放射性物質は、もともと原子力発電を推進してきた一群の“原子力村”の人々が膨大なコストをかけて自然の中から抽出し、濃縮して燃料棒としたものです。
 原子力発電を推進してきた科学者グループは、火力発電所が放出する二酸化炭素が数年内に暴走的な地球の気温の上昇を招いて地球環境に重大な影響を与える危険(地球温暖化問題)があるとして原子力発電への転換を喧伝してきました。一方で、原子力発電を推進してきた科学者グループは、原子力発電所はあらゆる事態を想定して設計されているのでとにかく安全であると喧伝してきました。しかし結果的には、彼らが主張したような暴走的な地球の気温の上昇は起こることがなく、メルトダウンした原子力発電所から漏出し続ける放射性物質が世界的規模で重大な環境汚染を引き起こしています。
 原子力発電を率先して推進してきた代表的な科学者の一人は事故後に「原子力発電所自体はキット(単体)としては十分に完成度の高いものとすることができていた。これからは、自然(地震他)や社会(電源供給体制他)と、(単体での完成度が高いと自称する)原子力発電所とをいかにうまく対応させてゆけるかについてさらなる改善を検討してゆきたい」と語りました。なんと幼稚な思考でしょうか。彼ら専門家と称する科学者がいかに狭い視野によって、実際には極めて多面的な現実の狭い一面だけを見ているのかが判ります。
 さらに、彼ら原子力発電を推進してきた科学者達には、地域独占を認められた電力会社から多額の寄付金が支払われていたことが報道されています。また、その電力会社に地域独占を認めた監督官庁からは電力会社への多くの天下りがおこなわれていたことも報道されています。また、地域独占の条件では、電力会社はコストの3%を利益とすることが認められていますので、電力会社はさらにコストをかけて利益を上げるようにと、原発推進、広告宣伝、政治献金をおこなっているのではないかと改めて注目がされています。この結果、科学者、役人、電力会社、原発メーカー、マスコミ、政治家による一群の“原子力村”の存在が悪名高く世界に知られることとなりました。
 彼らは米国と比べて3倍高いといわれる東京の電気料金を基に、これからさらに彼らの原子力産業を発展させ、世界に原発技術を輸出しようとしていたところでした。しかしながら、今回の原発事故で、彼らはその信用を失墜し、国民の大きな反感を買い、損害賠償責任を負い、日本の経済を縮小させ、大きく利益を失うこととなりました。“原子力村”の終わりが始まりました。彼らは事故前までは日本で最も知性が高く最も成功した人々と思われていました。今では彼らは最も愚かで憐れむべき人々といえます。私達は彼らのような視野の狭い、エゴイズムに陥った一面的な知性しか持つことはできないのでしょうか?「死んだ思考」をいくら巡らせても「答え」は得られません。
 死にゆく肉体が必要とする日々の糧を得るために、石をパンに換えるために、一面的な狭い物の見方だけに執着し、果ては自ら滅びてゆく、このような「死んだ思考」の限界を超えて、不死の精神に立脚して、多面的で生き生きとした現実(真実)に向かい合うことができる「生きた思考」をおこなうことはできないのでしょうか?
 ルドルフ・シュタイナーは主著「自由の哲学」で、「表象に対する思考(“知覚対象と表象”における表象に対する思考)」を超える、より高度な思考として、「概念内容の純粋直観(概念内容を理念の世界から取り出してくること)」により「純粋思考」をおこなうことができることを明らかにしています。
 「理念の世界」とは、ソクラテス、プラトンおよびアリストテレスが見ていた「イデアの世界」です。すなわち、「死んだ思考」により感覚の世界と精神の世界との間に横たわる深淵に向かい合い、思考主体である精神として深淵を超えて「イデアの世界」に向けて「問い」を発し、イデアの世界から「答え」を受け取る。これがルドルフ・シュタイナーのいう「純粋思考」であり「生きた思考」です。
 「死んだ思考」と「生きた思考」の最大の差異は、「死んだ思考」が(人間の外界において)肉体に基づいて知覚される「知覚対象」に応じて(人間の内面において)「表象」として現れる、その「表象」についての思考であるのに対して、「生きた思考」は、不死の精神に立脚しておこなう、例えば「発明」のように、考え抜いて、問い続けた「問い」への答えとして「イデアの世界」から「閃き」としてもたらされる「直観」であることです。
 ですから、深い思考によって物質の世界を脱して(精神として)深淵を超え、精神の世界(イデアの世界)に至るような思考をおこなうことにより「問い」を発することができると共に、「イデアの世界」(精神界)から問いに対する「答え」を受け取ることができなければなりません(このように理念の世界(精神界)に生きることを瞑想、熟慮meditationといいます)。また、「純粋思考」をおこなうためには、「答え」を与えてくれる「イデアの世界」(精神界)との生き生きとした関係を築かなければなりません。
 「死んだ思考」に対しては「イデアの世界」(精神界)はいつまでも沈黙し続けるでしょう。また、「問い」が適切でなければ、「イデアの世界」(精神界)が答えることはないでしょう。「イデアの世界」(精神界)への参入は「秘儀参入」として知られています。秘儀参入者「パルツィファル」が「聖杯の城」で「正しい問い」を発することができるか否かを問われるように、「純粋思考」をおこなうためには、適切に「問い」を発する能力が求められます。それについてはルドルフ・シュタイナーの「いかにしてより高次の世界の認識を獲得するか」に詳しく記されています。そして正しい「問い」は「イデアの世界」への参入の道を指し示すことでしょう。正しい「問い」が現代の「聖杯の城」としての「普遍アントロポゾフィー協会」を指し示すことでしょう。「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。」です。
 アントロポゾフィーでは、科学、芸術、宗教の各分野において人間を一元的に捉えます。
 「科学」とは「純粋思考により新しい宇宙(世界)を認識する」フェーズをいいます。
 「芸術」とは「純粋思考により自ら認識する新しい宇宙(世界)を模倣する」フェーズをいいます。
 「宗教」とは「純粋思考により自ら認識する新しい宇宙(世界)と合一する」フェーズをいいます。
 ですから、「純粋思考」によりアントロポゾフィー(精神科学)の認識(科学)ができるようになる前に、アントロポゾフィーの「芸術」や「宗教」ができるようになるはずがありません。「純粋思考」を通過することなしに「純粋感情」や「純粋意志」に到達することはありえません。
 自ら認識をおこなうことなく(正しい「問い」を発することなく)、オイリュトミーや教育等の「芸術(テクニック)」にのみ関心を持ってアントロポゾフィーを求める人や、キリスト者共同体(普遍アントロポゾフィー協会とは別の組織です)に所属してアントロポゾフィーをおこなうことができると考える人がいるかもしれませんが、それは「死んだ思考」に基づく「地上の(普通の)芸術」や単なる「信仰」であって、「アントロポゾフィーの芸術」や「アントロポゾフィーの宗教」にはなりえません。そのような人が例え「シュタイナー教育」をおこなっていると主観的に思い込んでいても「自由ヴァルドルフ教育」にはなっていないでしょう。子ども達に「死んだ思考」で接しても何ら有意な影響は現れないでしょう。
 アントロポゾーフは例え未熟で「イデアの世界」(精神界)からの「答え」が得られない段階においても、「イデアの世界」(精神界)に向けて正しい「問い」を発することができるように、「イデアの世界」(精神界)との関係を構築することができるように、認識の道を、「純粋思考」を求めなければなりません。
 アントロポゾフィーを求める者にとっては、まずは「死んだ思考」を脱して「生きた思考」(「純粋思考」)をおこなうことができるかどうかがすべてを決定付ける鍵であり、厳粛な選別の篩(ふるい)なのです。

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